多田逸郎。
自分と同世代でリコーダーを演奏する人ならこの人の名を知らないわけはないだろう。日本のリコーダー界の草分け。ゼンオンから出発されたリコーダーの譜面のシリーズは、今も定番の楽譜として広く使われている。
実は自分と同郷というだけでなく、多田先生が高校生の時に、自分の父がソルフェージュを指導したり、父の主催するコーラスのメンバーとして参加されたりしていた。むろん、自分が生まれるよりはるか昔、戦後間もない頃のことだ。
多田先生と初めてお会いしたのは、自分が小学校3年生くらいのこと。その頃住んでいた借家に多田先生が東京から初めて訪ねて来られた時のことだ。
見慣れないフォルクスワーゲンが、へびを捕まえている自分を横目に、家の前を一旦通り過ぎたが、Uターンして戻ってきた。
「猪狩先生のお宅はこのあたりではありませんか?」とへびを手にした自分に尋ねるフォルクスワーゲンの主が多田先生だった。
あとから聞いたことだが、住所からすると先生のお宅はこのあたりだが、へびを捕まえている少年がいるから、まさかここは先生のお宅ではないだろうと思ったそうだ。父はへびをつかむなどということは想像だにできない音楽教師だった。
多田先生は、父のソルフェージュ指導のあと、東京芸大の楽理科に進学し、その後、芸大の講師や東京教育大学附属駒場中学などの教員をしながら、日本にバロック音楽とリコーダーを普及する仕事をされた。
ちょうど自分が小学校低学年の頃、父のピアノ教室の発表会の記念品として、その頃まだ普及する前のバロック式リコーダーを、多田先生のお世話で採用した。
その関係で、当時の家には、その予備として購入したソプラニーノからアルトまでのリコーダーがおもちゃのように転がっていた。小学校でリコーダーを習う前に、知っているメロディならリコーダーで吹いてみるのは、いわば習慣になっていた。
多田先生の父へ恩義の念はすさまじいもので、生涯変わることはなかった。食べるもののなかったあの時代、食べ盛りの高校生であった多田先生に、父は腹一杯食べさせたと、ことあるごとに多田先生は語られた。
恩人の息子である自分にも、ほんとうによくしてくださった。東京で初めて写真展をしたときには、会場近くの知遇の店でご馳走していただいたのも今や思い出だ。
20代の頃、笛吹行脚などをして、どちらかといえば、リコーダーの異端児であった自分にとってはちょっと煙たい感すらあったが、むろん、先生はそれに苦言らしきことを呈されたことは一度もない。
それどころか、50歳を過ぎてから、初めて作ったリコーダーのCDをお送りした時、
「ブローイングが本格的だ」とお褒めいただいた。そのことは、現在もなによりの自信になっている。
また、同じ手紙に、
「あのへびを手にしていた少年が白髪混じりになりリコーダーを吹いているとは感慨深い」というようのことも書いてくださった。
2017年の末、母の逝去をお知らせした時に、多田先生から届いたハガキに、入所されている施設の名前が書かれていた。癌と闘病中だとはうかがっていた。それでなくとも、80も半ば過ぎのご年齢。
多田先生とのご縁で今もリコーダーを演奏していることのお礼を、直接お伝えしたくて施設にお訪ねした。
車椅子を自ら操って病室から出てこられた先生は、身体の衰えはあるものの、精神活動はまったく若き日のまま衰えていないご様子だった。母の逝去の報告とリコーダーとのご縁をいただいたお礼を、しっかりとお伝えすることができたが、一方で、お会いできるのはこれが最後になるかもしれないと、思わなかったといえば嘘になる。ご逝去はそれから4ヶ月ほどあとのことだった。
多田先生のお手紙は名物だった。原稿用紙にブルーの万年筆。さらに、旧字体、旧仮名遣いで、まるで篆書のフォントのような、これでも手書きかと思わせるような筆致である。
後年、さすがにパソコンを使われるようになったが、それでも、わざわざ旧字体のフォントを使われ、旧仮名遣いも踏襲されていた。
拝見したことはないが、手書きの譜面は、筆五本を片手に握り五線譜を引くところから始め、後年の研究者がバッハの自筆譜と間違えるようなものを書きたいとおっしゃっていたのが印象に残っている。
一般的にいえば、そうとう堅物の部類に入るお方だが、堅物ならではの茶目っ気というか、気どりの楽しい方だった。
ピアノ教室の家に生まれながら、その楽器が身につかなかった自分が導かれるように演奏しているリコーダーという楽器。この楽器が好きで好きでたまらないとか、憧れたり恋したりしたことはない。気がつくとそこにあり、60歳を目の前にした今、いつのまにか自分の音楽表現上、最も重要な楽器になっている。
その源にあったものが、多田先生と父との出会いであり、その恩に報いようと生涯を通じて、へびを手にしたその不肖の息子に目をかけてくださった多田先生のお気持ちであったことに、今ようやく気づきつつある。
人生とは何かを計画している時に起ってしまう別の出来事…
先生のエッセイを読ませていただいていたら星野道夫さんのこの言葉が浮かびました。
ヘビを手にした少年が…不思議な巡り合わせなんですね。(^^)
いがり先生のお父様への恩義をずっと思われ続けた多田先生と多田先生との出逢いでいつしか導かれたリコーダーへの道程に想いを馳せる先生と似ていらっしゃいますね。