イギリスからの植物観察ツアー、その尾瀬でのローカルガイドを引き受けることになった。
準備を始めて愕然としたのは、尾瀬にあるような日本に特徴的な植生を構成する植物の学名がさっぱり言えないこと。国外にないものほど、学名を使う機会が少ない。
付け焼き刃で、下見をしながら、見た植物の和名学名対照表を作りツアーに備えた。前日は、まるで高校の時一夜漬けで豆単テストに備えたような勉強をした。
遠来の客を迎えてみると、今度は発音の違いに愕然。植物の学名はラテン語なので、一応ラテン語的な発音が推奨されているが、実情はそれぞれの国の言語の発音に大きく左右される。
それでも学者はさまざまな国の学者と日常的に交流するからだろうからか、ラテン語に近い発音をする、あるいはしてくれる人も多いのかもしれないが、今回案内するのは、いわば市井の趣味家である。
スミレのViolaをヴィオラと言っても首をかしげる。楽器のことかと思ったという。彼らの発音はヴァイオラなのだ。
カエデのAcerを、自分はロシア人風にアツェールと読んでしまうが、彼らはエイサーと読む。カエサルがシェイクスピアではシーザーになることを思えば、腑に落ちる。
それにしても、その市井の趣味家の知識の量と深さに驚愕した。なかで、もっとも詳しいダイアンという女性は、日本や中国の植物を種子をとりよせ自分の庭で多数育てている。
アズマイチゲもカラフトアツモリソウもある。花が咲く前のミズキの木を教えると
「ごめんなさい、これも私の庭にあるわ」
と得意げに謝った。
イワナシの咲くところに連れて行くと、
「これが見たかった。世界に三種。アメリカとコーカサスと日本。これがそのひとつね」
この属の世界の分布をさらっと教えてくれた。むろん、日本語でも調べればわかることではあるが、日本に一種しかないこの属の種ごとの分布など、よほど特別な関心をもつ人以外、諳んじている日本人もないだろう。
彼女は特に詳しいが、これまで知り合ったイギリスの園芸人の知識の量と幅には驚かされる。今回のほかのメンバーも例外ではない。
自国の植生はお世辞にも豊かと言えない。種数でいえば、日本の半分にも満たない。固有種も数えるほどしかない。
結果、彼らの関心は最初から世界に向く。キューガーデンと王立園芸協会という、植物学と園芸の世界のセンターがいずれもロンドンにあり、そこに集積された世界中の文献も、多くは母国語の英語で読むことができる。
さらには、夏が涼しく冬暖かいイングランドの気候は、たいていの環境の植物が簡単に育つという。
母国語と同じアルファベットで構成される学名も、自然に入るのだろう。日本人が和名を漢字でや生薬名で覚えているような感覚だ。学者ならずとも普通に使う。
道すがら、我々が休憩している傍で、オオバノヨツバムグラの葉を見て、
「これってクローバーじゃないわね」と明後日のことを言い出す日本人がいるので、思わず、
「ちがいます。ヤエムグラの仲間ですよ」
と節介をやくと
「やえむぐら…..?」
「ヤエムグラそのものではないんですけどね」とまどろっこしいことになった。
イギリス人に説明するのなら
「It’s Galium!」
の一言で済む。
ヤナギランの名を教えると
「へえ〜、蘭なんですねえ」と必ず反応する人がいるが、学名ならその類の誤解の心配は不要だ。
むろん、和名は日本人の植物への見方を反映した財産でもあるが、同時に植物分類学の考え方を反映した学名を扱うことで、知識は整理しやすくなり広がりと深まりをもつ。さらには外国の識者と交流するのに欠かせないのは言うまでもない。
私はもはや手遅れ感もあるが、植物関係で仕事をしようとする人なら、和名より先に学名を覚えるような気持ちでとりくむことを、強くお勧めする。
和名と日本語禁止の植物観察オフ会などあれば、参加してみたい。